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創立者 レイ・ペディゴ師

レイ・ペティゴ宣教師は第二次世界大戦の時、弟のジェス師がフィリピンで捕虜になったのを知り、復讐を誓って海軍を志願した。ところが入隊後、結核にかかり3年半の闘病生活を送った。
ある日、危篤状態のベッドでラジオ放送を聴いていた。「イエスはあなたの病を治して下さる。この放送をお聞きの方は、ラジオに手を当てて共に祈りましょう。」それは、神の御手から離れてゆく子を呼び戻すような声のように聞こえた。レイ師がやせ細った手をラジオに当てた時、しびれるような霊感が襲った。それは「癒される」という霊的確信であった。次の日、夢を見た。赤ちゃんをおんぶしている日本人のお母さんに向かって福音を説いている夢であった。海のかなたにある日本報復を志した日本人に対する伝道の啓示であった。

1950年、宣教の使命に燃えるペティゴ兄弟は、相継いで来日した。
全財産を売り払い、サポートする団体もないままの単独での来日であった。宣教の武器は、電波であると確信した。自身がラジオの福音放送によって救われた体験を通してであった。日本で初めて、ラジオ東京の電波に福音をのせたのを皮切りに、
京都、大阪、高知、和歌山、そして地元の広島で電波伝道を続けた。資金は、「ミッション・トゥ・ジャパン」という宣教団体を作り、アメリカの教会巡回やラジオ放送を通して献金を募った。サポートの多くは、裕福ではないアメリカ人クリスチャンにより、献身的にささげられた。


キリスト伝道丸
一方、船による瀬戸内海伝道は1956年に開始。漁船を買い、松山市を基地に伝道が始まった。翌年、17トンのアーミーボートに買い替え、伝道の本拠を呉市の呉リバイバルセンター教会に移した。船の中にチャペルを設けた
「キリスト伝道丸」(100トン)の伝道は29年間続いた。
レイ・ペディゴ師のデザインしたロゴマークは、日本全体の地図の上に大きな十字架が覆い、そこから光が発せられているというものであった。53年の歴史の中で、様々な教団の牧師、牧師夫人が教会から25名程が献身しており、船の伝道からも含めると、それ以上の数になると思われるが、正確には数えることはできない。
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